兵頭歯科 松山

松山市にある「歯を削りたくない」歯医者さん - 兵頭歯科医院

お問い合わせ 089-925-8148

診療時間

兵頭歯科 松山 - 愛媛県松山市西長戸町

医療法人 兵頭歯科医院

松山市にある「歯を削りたくない」歯医者さん

サイトマップ 診療時間・アクセス

スマトラ沖大地震復興活動

スマトラ沖大地震 復興支援医院案内

合計2,900人の診療

スマトラ沖大地震 復興支援活動

作りかけの小学校の体育館を借りて治療を行う。(写真は兵頭院長と現地の子供)

まだ記憶に新しいスマトラ沖での大災害…

タイ国政府の津波復興対策委員会より復興支援の依頼があり、2005年9月19日より一週間タイ王国パンガー県アクアパ郡バーンモアン地区バーンナムケム村の医療活動に参加しました。

総勢125名医療チーム ができました。その内訳は、日・米・タイで医師・歯科医師(35名)・歯科衛生士・歯科助手(20名)・薬剤師・看護師(20名)・現地ボランティア・アメリカ人ボランティア・在留邦人・通訳(50名)です。

スマトラ沖大地震 復興支援活動

日・米・タイ合同のボランティアスタッフが治療に専念する様子。

合計2,900人の診療

この医療チームがバンコクに現地集合し、そこより移動・プーケット経由で被災地に到着したのが夜の10時、合同チームによりミーティングを行い翌朝6時起床、早朝より夕方まで昼食の時間を除き、ただひたすら治療活動を行い夜の8時に合同ミーティングまた翌朝6時起床の繰り返しの毎日で合計2,900人の診療を行いました。

バーンモアン地区に広がる仮設住宅

バーンモアン地区に広がる仮設住宅

スマトラ沖大地震 復興支援活動

バーンモアン地区での五日間にわたる医療活動内容

治療の様子

活動内容はまず最初に内科・小児科による総合診断。予防指導・スケーリング・抜歯・充填(じゅうてん)・義歯の修理・新製のコーナーに分かれ、作りかけの小学校の体育館を借りて行いました。
日中の気温は36~37度の中で当然冷房なく、暑いためいくらミネラルウォーターを飲んでも蒸発しトイレに行く事はありませんでした。

海岸より5km奥地に打ち上げられた貨物船

海岸より5km奥地に打ち上げられた貨物船はあまりにも大きな災害の爪痕。

この小学校のある村は、昔は6,200人の人口だったらしいのですが3,000人以上の死者3,000人近い行方不明者が津波による犠牲者となった所です。現地の方の話によると、この地区の津波の高さはビルの4階建て(20m)で津波は、押し寄せてくる時よりも引いていく時の方が全てを海に持っていかれ恐怖が大きいそうです。

この貨物船の写真は、小学校より徒歩で3分の所に打ち上げられており(海岸より5km奥地)この付近には数え切れない死体があったそうです。周囲から何10kmも離れた所からもトラックやバスで治療に来てくれました。

スマトラ沖大地震 復興支援活動

久枝小学校の子供たちの絵は、国境を越えて現地の子供たちの心に届いた。

学校医をしている久枝小学校の子供たちに描いてもらった虫歯予防のポスターを持って行き予防指導を行いましたが、もちろん字は違うけれども同じ年齢の子供たち同士、心が通じ合うのかどうか絵を見せて予防指導をすると非常に好評でした。

治療中、一番びっくりした事は抗生物質が非常に効き、切れのよい事です。(多分あまり抗生物質を使用していないからでしょう。)

学校でのボランティア

昼食の時間に小学校の教室を覗いてみると、アメリカ人の夫婦がボランティアで英語を教えており、話をしてみるとすでに8ヶ月ボランティアで活動しておられ、たかだか一週間ぐらいの我々の活動に対してこの子達のために日本から治療に来てくれてありがとうと私に言いました。

オーストラリアから来た大工さんは、のこぎりとかなづちだけ持って来てコツコツと大工仕事を手伝っておられました。子供たちと写真を撮ったり、遊んだりしているうちに友達になりこの写真を今度来るときに持って来てくれと頼まれました。今回の活動は、飛行機代・食事・ミネラルウォーターにいたるまで全て私費であるためそう何回もは行くことが出来ず、返事に困り後で郵送でもしようかと考えております。

ボランティアスタッフ

最後の日も昼まで仕事をし、夜の12時バンコク発、関西空港着朝6時の日程でしたのでどこもゆっくりと見学する事は出来ませんでしたが、いろんな国の善意の人達と接する事が出来、いい思い出をたくさん持って帰りました。約5日間、水のシャワーだけで熱い風呂にやっと入れたのは松山の久万の台温泉でした。

同行した歯科医師に「太郎」という青年がいました。友人である太郎の父に
 「息子はまだ新米の医者で何もできないから兵頭たのむ。」
と、話をいただきました。現場では担当する外科コーナーに連れて行き、必死で治療に励みました。
スマトラより戻り半年後、太郎の父はガンで亡くなったと電話で連絡を受け、余命一年と宣告されていた身と初めて知りました。
ここでの経験、生きざまを息子と共有したかったのでしょう。 本ページの冒頭にある写真右の青年が、その太郎歯科医師です。
to page top